観光都市 ネオ・ヴェネツィア――
マンホーム時代からの歴史的な建造物を有する街。 荘厳な石壁の間を大小さまざまな運河が縦横無尽に駆け巡った水の都。 その周囲は群青のネオ・アドリア海に囲まれ、街だけでなく自然の美しさからも風光明媚な場所として名高い、イタリア人が世界に誇る屈指の観光都市である。
ネオ・ヴェネツィアといえば、その名くらいは誰もが一度は耳にしたことがあると言っても過言ではないほどに名の知れた街なのであるが、そのような人気観光都市であるネオ・ヴェネツィアの中でも、さらにお薦めの絶好スポットとしてパンフレットのトップを飾るような特別な場所がいくつかある。その“指折り”のひとつに『サン・マルコ広場』という大きな広場があった。 上空から見下ろせば、東側の一辺を底辺に持つ、縦に長い台形のような形をしているのだが、この広場、さすがは屈指の名所といったところか、とにかく人の出足がハンパではない。そもそもこの広場自体が人気のスポットではあるのだが、そのそばには、こちらも指折りのサン・マルコ寺院がそびえているし、カフェ・ラテで有名なカフェ・フロリアンも店を構え、おまけに、アクアの玄関口であるマルコ・ポーロ国際宇宙港までもがそばで門戸を開いて、この地への旅行者たちを一手に引き受けているのである。アクアに到着した人々が、たとえ人波に押し出されなくとも最初にこの広場へ足を向けてしまうのは至極当然の流れになっており、常に活気で満ち溢れているのにも頷ける、サン・マルコ広場はまさにネオ・ヴェネツィアを代表する名スポットなのである。
このように、新天地に目をキラキラ輝かせた旅行者たちを見事に出迎え、負けず劣らずの名所がちりばめられた街の奥へと送り出していくサン・マルコ広場なのだが、この広場が街へと送り出すものがもうひとつあった。
ガラ~ン…… ゴロ~ン……
それは、早速響き始めたこの音―― 何の音かといえば、ネオ・ヴェネツィアの誕生以来、この街の鼓動のように時を刻み続け、それそのものにも歴史が刻まれた古き時計塔の鐘の音である。 哀愁の念すらわき立たせるしんみりとしたその鐘の音についてネオ・ヴェネツィアで生活する人々の声を聞けば、なかには、たいして気にも留めていないようなそっけない返事を返す者もいるかもしれない。しかし、そんなそっけない返事をした住人をほかの住人が見ていれば、間違いなくこう付け加えて笑うだろう。 ――この街の住人にとって、時計塔の鐘は“聞こえて当然”の音なんだよ―― ネオ・ヴェネツィアに住む人々にとって、歴史感あふれる建造物や張り巡らされた水路、明るいカンツォーネと共に往来するゴンドラといったこの街ならではの景色にスッと入り込む時計塔の鐘の音は、形はなくともなくてはならない、まさに“当たり前”の情景として心に深く沁みついた故郷の音色となっているのである。 そして、そんなネオ・ヴェネツィアの鼓動ともいえる鐘の音は、街を散策する旅行者たちの耳にも当然届いた。 そう……民家に挟まれた細い路地、陽の光もまばらにしか届かない薄暗い石畳を歩く、なんともソワソワした二人の男女にも等しく平等に――
つい今しがた聞こえた鐘の音は、街に午後四時を告げる役目をそっと終えたところである。
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「あぁ……迷路みたいで道に迷いそうだ……」 重苦しい溜息まじりに愚痴をこぼしたのは、先を歩いていた男の方であった。 今の今までずっと歩きづめだったに違いない。だから、疲労も足にまできていたのだろう。彼は、惰性でニ、三歩ふらつくように進んでから、その歩みをやっと止めた。片方の手にぶら下げている、少し重たそうな旅行バッグをもう片方の手に持ち替えると、もと来た道を振り返って……また前へと向き直り……そして、ゆっくりと天を仰ぎ見た。とはいっても、ここは水の都ネオ・ヴェネツィア。ただでさえ普通の街より地面の部分が少ないというところに、民家がおしあいへしあい建ち並んでいるのである。しかも、いま彼がいるここは、まさに、その民家の透き間の細い路地。たとえ彼が見たいと願って見上げたのだとしても、せいぜい今いる路地のように細長く切り取られた空を眺めるのが精一杯であった。 そんな狭い路地の真ん中で先を進む者が立ち止まれば、三歩ほど後ろをついてきていた少女もまた、その歩みを止めなければならなくなる。彼女は、うつむき加減で歩いていたからか、急に止まった先導者に気がつかず、思い切りぶつかりそうになってしまって、驚いたようにその小振りな顔を振り上げた。 少女は、目の前で急に立ち止まったかと思えば、どういう訳か空なぞを見上げている男を迷惑そうな目つきで睨んでいたのだが、小さな溜息で「やれやれ」と眉間を緩めると、男の隣に並んで、彼に合わせるようにして空を見上げ始めた。もちろん、見上げた空は隣の彼と同じネオ・ヴェネツィアのそれであるから、少女の目に映ったものも、今いる路地のように細くて長い、そして普段より妙にまぶしく感じる青い切れ端でしかなかったのだが。
「……ほんと、すごく懐かしい街並みです」 そびえるように立ち並ぶ民家の陰の中、いつも以上に明るくみえる空色を見上げて、少女が懐かしそうに呟いた。 彼女は顔を下ろし、男と同じようにもと来た道を振り返った。そこには、緩やかに曲がる石畳の道が建物に隠れて見えなくなるまで続いていて、その石畳は、これから通る予定の路地の先にもずっと続いている。 時折、近くの窓から誰かの楽しそうな話し声がもれてきて、両脇に続く壁がただの塀でないことを二人に思い出させた。 「トレニアが昔住んでた所って、こんな感じの街並みだったの?」 トレニアと呼ばれた少女はひとつ頷いて、片手に持っていた旅行バッグを地面にドカリと置くと、重みで赤らんだ手をプラプラ振ってストレッチを始めた。 「だいぶ小さい頃のことなのでうろ覚えなんですけど……道が入り組んで迷いやすかったのは、はっきり覚えてます。それにしたって……この街ほどではなかったはずです」 そして「ふぅ」と溜息をひとつ―― ストレッチしていた手をこんどは腰へとあてがって、少女は自分よりも背の高い青年の顔を半ば不機嫌そうに見上げた。 鋭く刺すような視線を向けられた男は、その少女の不機嫌な理由に心当たりがあったのだろう。ばつが悪そうに「あはは」と頬を掻きながら、圧されるように小さく一歩身を引く……が、少女も目ざとく、彼のその逃げ足を見逃さない。 脇の壁に追い詰めるように、大きく一歩踏み込むと、 「穏さん……ただでさえこんなに道が入り組んでるんですよ? それなのに……行ったこともない目的地に行くのに、地図もなし、まして誰にも道を尋ねないだなんて……」 理性をまとった口調でそこまで続けた少女だったが……何かを思うようにゆっくりと目をつぶり……
大きく息を吸い込んだ……!
「『道に迷いそう』じゃなくて、もう道に迷ってるんですっ!!」
カッと目を見開いた少女の、火でも噴かんばかりの凄まじい怒声に、民家から聞こえていた楽しそうな話し声がピタリとやんだ……。 怒鳴りつけられた穏という青年は、胸の前で両手を広げて「そう怒るなよ」となだめようとするのだが……眉間に寄ったしわの本数をみる限り、トレニアという少女の機嫌はしばらく収まらなさそうである。 |