再び歩き始めてしばらくすると、息苦しいほどに狭かった路地がパァッとひらけて、どことなく沈んだ顔をしていた二人を目が眩まんばかりの白が包み込んだ。
「橋だよ、橋ぃ!」 ただ民家を抜けて水路に突き当たっただけのことだったのだが……穏はなにか目標でも成し遂げたときのような清々しい笑顔を浮かべて、目の前に現れた建造物の名前をいとおしそうに口ずさみ始めた。そんな喜々とした彼の足は、待ちわびたそのアーチへとすぐに向かう。そして、「いざ舟を!」と眼下の水路を見やった彼の顔は“キラキラきらめく水面”という予想外の邪魔者に阻まれはじかれるようにして天を仰いだのであるが、その眼前には――雲ひとつない――それは清々しい快晴の空が旅行者の彼を歓迎せんばかりに広がっていた。 「ん……んんあああーーーっ!」 手荷物をドカリと置いた穏は、手と手を組んで大きくひと伸び……。その手を下ろしながら胸の中のよどんだ空気を一気に吐き出すと、人差し指でネクタイをグイと緩めて首もとのボタンを二つはずした。 あとから上がってきたトレニアも、彼に倣うようにして手荷物を下ろした。そして彼女も、軽くない荷物を持って歩きづめだった身体をほぐそうと手と手を組み合わせる。しかし、穏の方を横目でチラリとうかがったトレニアは、青空に向かって思い切り伸ばそうとしていた両手を背中で静かに組みなおすと、ストレッチは地面に向けて小さく伸びをするだけにして、欄干に腰掛けた穏の隣にスススと並んでそっと頬杖をついたのだった。
ひんやりとした石造りの欄干が火照った身体に心地よい。風にも少しばかり冷涼感が出始めて、二人の頬を伝っていた汗はいつの間にやらどこかへと消えていた。
「……にしても、あのキーワードみたいなアレはなんだったんだろうななぁ……。影追うにしたって、この街の中はほとんどが建物の影だらけだしさ。なにかしら意図するところがあるんだろうけど、そんなおもしろいこと考えるくらいなら、手描きでいいから簡単な地図のひとつくらい付けといてくれればよかったのに」 そうひとりごちたのは、青空と自分の間で風に揺れる洗濯物をボーっと眺めていた穏である。 彼は――手描きで――のあたりまで言ったところで、内心では「しまった……」と後悔していた。それは、たった今もらした愚痴が、ほんのいましがたトレニアのご不興を恐れてのみ込んだ愚痴だったからなのだが……。 「カフェで休憩したときにでも、店員さんに尋ねておけばよかったですね。穏さんがケーキまで食べさせてくれたから、私もすっかり忘れてお店を出ちゃいました」 トレニアの口からは、彼の想定外にすっかり機嫌の直った穏やかな返事が返ってきたのである。 しかし、想定外とはいっても、穏にもトレニアの気分はなんとなく想像がついた。彼自身も、建物に圧迫されるような路地から抜け出した今、なんともスッキリした気分を胸に味わっていたからだった。 「……そっか。ちょうどおやつの時間も近かったし、おいしかったなら頼んでよかったよ」 「穏さんも食べればよかったんですよ。はんぶんこでいいって私言ったのに……」 そう言ってトレニアは口を『へ』の字に曲げたのだが、どこからともなくそよ風が吹いてきて――思わず頬が緩んだトレニアは、髪を揺らす遊び好きな風を気持ちよさそうに堪能しはじめた様子だった。
「……そういえば、トレニアは着替えとかお泊まりセット以外には、なにか持ってきた?」 ふと、穏がなにげなく口を開いた。 トレニアは、閉じていたまぶたを少しだけ上げて、ゆっくりと自分の荷物を流し見ると、どういう訳かフフッと含み笑う。そして、まるでそれを隠すようにすぐに真顔に戻した彼女は、向かいの欄干へとのんびり歩きながら彼の質問に答え始めた。 「……何人かで遊べるカードゲームと、あとは前に撮った写真を何枚か。行った先で話題にもできますし」 「そっか。写真はどんなのを持ってきたの?」 「教会でみんなを撮った写真と、あとは……」 「……あとは?」 「……それはいずれ分かりますよ」 「おいおい、秘密かよ。変な写真とか持ってきてないだろうな?」 「そんな写真に心当たりがあるんですか?」 「んー……って、誘導尋問反対! 聞いたのは俺!」 トレニアはかかとでくるりと振り返る。 両サイドでテールに流された彼女の髪がふわりと鼻先をかすって、穏は彼女を追うように突き出していた顔を思わず仰け反らせた。 「大丈夫ですよ。少なくとも、私が変と思っている写真なら、そんなものは持ってきていませんから」 「さいですか……。まあ、おまえのことだから心配はしてないけどさ」 「……ありがとうございます」 そう言ったトレニアの口もとが少し笑ったような気がしたのだが、穏は、きっと気のせいか見間違いに違いない……と、そう思い込むことにした。
そうして、しばらく他愛もない雑談を交わしていた二人だったのだが……。 「……ん? どうかした?」 そう言って首をかしげて話を止めたのは、会話がスムーズに流れていた方が嬉しいはずの穏だった。 というのも、彼の視線の先では、いつもなら話はハキハキと進めるトレニアが、心ここにあらず……話半分といった感じで、チラリチラリと話し相手の彼とは違う方向を横目にうかがっている様子だったからである。 問いかけられたトレニアは、穏の目を見てコクリと頷くと、あっち――そう促すように、クリクリとしたエメラルドの瞳を再び彼から動かした。 「あの子……」 「……あの子?」 「ええ、あの子です」 トレニアが視線でじっとさした先には、白い服を着た、歳もだいぶ若そうな女の子がいた。その少女は、膝を抱えるように身を小さくすると、二人のいる橋のたもとの駐舟所に、独り寂しそうにたたずんでいるのである。 「……旅行の子かな」 そうつぶやいて頬に人差し指を伸ばした穏だが、トレニアの後頭部は左右に小さく揺れる。 「あの服だから、この街の子ですよ」 「……ああ、確かに。あんなセーラー服みたいなのを着た人がよくゴンドラ漕いでたね。じゃあ……なんだろう」 「ずっと下向いてるし……友達とケンカでもしたのかな……」 トレニアの語調は、今日一番の真剣な雰囲気をまとっていた。 そして、そう呟いた彼女に、穏は身体ごと動かして困惑したような視線を向けていた。というのも――他人を心配する事は決して悪いことではないのであるが――トレニアが今と同じような雰囲気をまとったときには、単純にそうもいえなくなる前例があったのである。 (ああ……また「ほっとけないじゃないですか!」とか言い出しそうだ……) 孤児院でも年長な方であるトレニアは、その面倒見の良さからいいお姉さんとして下の子に慕われているのであるが……その面倒見の良さがいきすぎてか、困っている人――特に自分より年下にみえる子供に対しては、人一倍、放っておけないところがあるのであった。 その決して悪くない性格のおかげで、これまでなんど予定外の寄り道やら厄介事を背負い込む羽目になったことか……。 脳裏で言葉にした不安をもういちど反芻した穏は、依頼主の所に到着する前に、素敵な助手が新たな依頼を引き受けてしまわないよう、なんとか彼女の意識をそらせないかと思考をめぐらせようとした……のであるが……。 そんな彼の思惑などお見通しだったのか、それともただの偶然か、パッと振り向いて穏の顔を見上げたトレニア。 「大丈夫ですよ、私も見えてることですし。それに……死して迷った魂を救うのも、この世で迷う子羊を救うのも、どちらも同じことなんですよね、エクソシスト様!?」 そして「まかせて!」とばかりにウィンク! 虹彩異色の穏の瞳もなかなかに人の気を惹ける魅力を持っているのであるが……しかし、滅多に見せない突き抜けんばかりの明るい表情からパチッと投げかけられるエメラルド色の“☆”の前には、さしもの穏もタジタジするばかり。ため息まじりに肩を落とした穏は「お手上げ!」とばかりに両手を振ってみせ、それを彼の「まかせた!」と解釈したトレニアは、うつむいて座る少女のそばへと橋を小走りに駆け下りていったのだった。
穏はやれやれと頭を抱えていた。 しかし、駐舟所の少女の肩に手をかけ、真面目一色に染まったトレニアの表情を見ると、その目じりを少しだけ下げた。 (……ま、俺もトレニアに面倒見られてる部分があるしな。悪くは言えないし……というかアイツは悪いことなんて何もしてない、か) 思い返せば、エクソシストの仕事中に限らず、プライベートでも、人懐っこいトレニアに何回フォローされたことか……。穏は感慨深げに宙を眺め、空に数ある思い出を描き出す。そして、そんな思い出を数つくってくれているトレニアだからこそ、彼は事あるごとに毎度ついてこようとする彼女を拒まないのだし……いや、最近では、むしろ彼の方から声をかけることすらあるくらいだった。 トレニアは、穏にとって、まさに“パートナー”といえる大切な存在となっていたのであった。 |